天気・降って湿った/体調・食べ過ぎた、かな?
ネット講義、聞きそびれてしまった。
最後の最後に、なんたる不覚!
溜まった一円玉を、そろそろ貯金しようかと思っています。
でも、
数えるのがめんどくさいほどにあるので、
実家に持って帰っても、いいかな、と思ったり。
家族全員、こういった事が、案外好きだったりするので。
正座に耐えられなくなりました。
すぐに痺れるとは、日本人としてあるまじきです。
椅子の上でも正座していた高校時代に戻らなくては!
人生における僕らの行為は、必然的ではない。
が、その必要性を、その行為全てで証明出来るのかと言えば、
たとえ全力でやり遂げようと、でもだ。
僕らは常に必要性があることを盲目的に信頼しているのでは?
何故、この事実に自覚的でないのか?
僕が絶望したのは、正にこの事実に於いてであったことを、
今日、一年半掛けて言葉に出来たことを感謝したい。
僕らは、常に独善的でしかないのかもしれないという恐怖を、
果たして伝えきれるのか否か。
天気・2人は僕らの知らないところで出会えたと思いたい/体調・血圧が低い模様
スイカ割り。
やっているのを見たのは、小学校以来。
それが周りにとって、どれほど恐ろしい者か、
実際に竹刀を向けられて、よく判りました。
七夕です。
願い事が叶う要素は、あの昔話の何処に在るのでしょう?
一番恐ろしいのは、
自覚無く自然といる誰か、である。
天気・雨は持ちこたえた・・・?/体調・顔がべとつく
目を見開いて直視すべきですね。
生まれたときより、社会から逃れられない以上、
どこに立つべきかを選択せねばならなくなる。
何が言いたいのか、やっぱり判らないのですが、
空しか見えない状態なのです。
どこにあるのか判っていても、行けるわけがない場所。
レポートを完成させることにしました。
考え自体は、今も持続しているのですが、
何処へも行き着かないことに絶望気味です。
児童絵画とは何か。幼稚園児の時に絵を描かなかった人は居なかったはずで、そういった絵を、何らかのコンクールに送る/送らないにかかわらず、私たちは絵として認識し、作品だと認識しているはずです。
此処で考えたいのは、こういった絵画を芸術作品と呼ぶことが妥当か否か、ということなのです。
果たして、ピカソやゴッホの絵と、幼稚園児の描いた絵が同じ展覧会で並んでいて、理屈の上では、変なことはないはずです。
が、微妙な違和感が、言葉に出来ないようなものとして、あると思われるのです。
小さな事ですが、ここには「芸術」ひいては「文化」という言葉の定義に関わる問題があって、さらには何が「芸術」を「芸術」たらしめているのか、にも関わる問題だと思うのです。
では、具体的に何処が違和感をもたらすのか、それを次から述べてみたいと思います。
天気・雨を気にしています/体調・腹と腰の間が離れていることを知りました。
いわゆる、下腹、といわれる箇所のことなのですが、
元々背が低いので、そんな箇所がハッキリと区別できるとは、
思ってもいませんでした。
ちょっとショックです。色々と。
2週間近く、というよりも5月の終わり頃から、
思考を静止させていました。
一つ前の日記にレポート形式で思索を展開しようとしていたのを見ると、
出来る限り悪あがきしていた、ということでしょうか?
己の立ち位置がハッキリしなくなってきた、というのが、
ここ最近の自分でしょうか。
毎年一回は壁にぶつかるのですが、
今がそうみたいです。
ゆったりとした躁鬱症みたいだ、とは、
友人の言葉だったりするのですが。
どうも、具体的な言葉に出来ません。
今の自分の言葉では、説明できなくなった、
ということなのかもしれません。
それとも、この形式の限界でしょうか?
向き合うということに道がないのかも・・・。
















