天気・淡い晴れ/体調・頭の痛みは、少しずつ大きくなり、喉の荒れは小康状態
対人関係が、少し落ち着く。
ここ一ヶ月、どうもソワソワしていたので。
私自身、そろそろヤヴァイような気がしていましたし。
やはり、気を抜くことはできない、ということでしょうか。
誰かのためにありたいと思うのに、
そうすればするほど、己が死んでいくように感じるのは、
ちょっと酷い、と思う。
小学生の時、もしくは幼稚園児の時、
絵を描いたことがない人、など、たぶんいないと思う。
それが授業で描いた風景画、友人の人物画にしろ、
夏休みの読書感想画にしろ、
それらを扱うコンクールや発表会で審査され、展示されている、
そんな絵を、幾つも見たことがあるでしょうし、
幾つも描いたことがあるでしょう。
つまり、私たちは誰しも、芸術家の履歴を持つ、といっても可笑しくはない、はずです。
が、実際に、そう言われると、上手く表現できない、齟齬といいますか、違和感があると思います。
もちろん、子供の描いた絵(これ以降は児童絵画に統一します)を芸術作品に含めるのはどうだろう、という意見もあるでしょうが、少なくとも、児童絵画は絵であって、美術館に飾ってある絵画と、その知名度や技術面に劣る面はあるでしょうが、「絵である」という本質(性質)に置いては同等のはずです。もし、それでも児童絵画を芸術作品の範囲内に含めることに抵抗があるのならば、古代の壁画は単なる落書きとしか評価できなくなるはずです。(もちろんここに、そういった壁画を芸術的能力の開花とし、そこから美術の発達史的な見方を持ち込むこともできますが、まぁ、それは置いておきます)
ここまでして、何が言いたいのかと言いますと、私たちは、児童絵画を芸術作品として認めている面があるのに、それらを美術館の絵画作品群と同じように扱うことに、どこか否定的であり、そうであるのに、そういった判断に対し、妙な罪悪感を持っている面もある、ということなのです。
これは、一体、どういうことなのでしょうか?
これから数日間、この事を追求してみたいと、思っています。
このブログでは初めての、レポート形式です。
客観性、考えるということについて
客観性というものを、想定することに意味はあるのだろうか?
そもそも、客観的に考える、ということ自体、不可思議だ。
考える、という行為が、主観から切り離されたものだと言えるのだろうか?
例え、どんなに客観的で純粋な記録を手に入れたとしても、それを私たちが考える内に持ち込んだ時点で、如何なるものも、主観の元に備わってしまうわけで。
ソレよりも重要なのは、今手に入れた情報が、どれほどのバイアスを掛けられたのか、そして、どれほどのバイアスを掛けようとしていくのか、を考えるべきだということではないだろうか?
そもそも、主観を定義づけたデカルトは、客観なんてもの、想定すらしていなかったはずで、他者を想定しなくてはならないほど、己の思考を信じられなくなったと言うことを、思索する本人が認めるわけにはいかないだろうに。
天気・曇り続けて、それでも干しました/体調・再び頭痛。今度は何だろうか?
朝から、なんだか頭が痛くて、
喉がやっと収まりつつあるのに、
なんとも嫌なことです。
なかなか晴れません。
土曜日から、強い日差しも無し。
今更ですが、梅雨ということでしょうか?
そういえば、
部屋の前にある、大きな木に、
どうみても梨ぐらいの大きさの、
黄緑色の固まりが、
大量にくっついていました。
・・・此処に来てから、初めて見るのですが、
鳥、でしょうか?
明日も存在するようでしたら、また別でしょうが。
天気・どこにいてもぬくくてたまらない/体調・喉以外は大丈夫そう・・・だよね?
溜まっていたBOOKOFFの点数を消費。
時間制限が伸びたのが嬉しい限りです。
買った四冊を並べてみて、
所有者の人となりが判るか、考えてみました。
・・・ケシカラン!オマエハ、ケシカラン!
天気・午後から厚く曇る/体調・咳が突発的に止まらなくなる
もう、咳はどうにもなりません。
身体も、なんだかすぐに痺れますし、
歩くだけでヨロヨロしてしまうし・・・
普段は食べない昼飯を、
ここ数日は多めに摂っています。
それでも、なんだか足りなく感じる自分がいて、
何をそんなに疲れているのか判りません。
主体、というものについて考える。
この言葉は、言葉を扱う思考に於いて、
使用に耐えうるような、そんな言葉なのだろうか?
主観と客観に関しても、どうにも怪しい。
現時点で、客観性というものは、
それを必要と感じる主体の内にしか存在しないのではないか、
と考えている。
では、この思考を行っている自分を、どう扱うべきか?
そもそも、この思考は、語っている自分の完全な支配下にある、
そう考えて良いはずだ。
・・・そうでもないか?聞く誰かの影響を考えるべきだ。
この人称を割り当てられた何か、は、すくなくとも語る・語られる場に於いて在るもの、ではあるのだが、明確に定義・説明されうる者ではないのでは、ないか?
天気・かなり晴れてました。/体調・咳が相変わらず
なんだか、寝付かれないので、
朝まで起きていました。
結構、どうってことなかったのが、
身体が限界超えたかな、と疑問に思ったり。
人は、今の状態を、肯定しなければならない。
その闇に対峙する。
そして、それを切り捨てるのではなく、肯定しなければならない。
天気・夜になって通り雨/体調・夏風邪、なのでしょうか?
この一週間近く、色々ありました。
早朝のフットサル大会が、終わった日から、
原因不明の偏頭痛、
首筋裏の痺れ、
吐き気を催す喘息気味の咳、
季節はずれの鼻づまり、
と、この一年間では、
最も酷い病症に襲われていました。
現在も、何か話すたびに咳き込むほどで、
授業にすら集中できないほどでした。
そんななか、
寮のネット環境にトラブル発生、
ここ五日ほど、全く接続できない状況でした。
もっとも、ブログが滞っていたのとは、別件なのですが。
それにしても、その修理工事の早いこと早いこと・・・
たぶん、二三時間ほどで終わったはず。
すごいな、N○T
・・・この伏せ字だと、なんか穿った見方されそう。
何かが役立たずであったとしても、無能であるとは言えない。
もちろん、その何かが排除されることは、そうであろうが、
それは、その何かが問題なのではなく、その何かを役立たずな場に置いたものに問題があるのだ。
抵抗のある考え方だが、目をそらすべきではない。
自分が攻撃する者は、偽善的なものである。
己の行為などを、不当に高く評価することは、偽善である。
しかし、それ以上に許し難く、不愉快なのは、
そういった事を行っていることに無自覚であり、なおかつ当然であると考え、それを周りにも適用しようとする人間である。
それが、自ずから起きてしまう事態である以上、それを否定することは人間性の否定になってしまうと思っているが、それを自覚しないことには、私たちは常に問題を解決できないままに生きていくことになる。
















