天気・明日も、このぐらいで、丁度いいかな?/体調・相変わらず
起きてすぐに買い物。
水の消費が早くなってきました。
児玉清の書評本を読む。
あの人、毎週アタックチャ〜ンスって言いながら、
こんな仕事もしていたんですねぇ。
海外作品の原著を取り上げながらの仕事には、
正直、脱帽の一言ですよ、本当に。
I,Robot、2度目ですが、やっぱり好きです。
アシモフの小説群とは別のベクトルですが、
なんか好きなんですよね、こういうの。
ヒトは種なのか、個に特化してしまったのか。
それとも、その両者は区別不可能なのか。
僕らにとって、特別、とは何なのか。
僕らが僕らなのは、きっとそういうことなんでしょうか。
正しさは、未来にならなければ決められない。
僕らは今を、ただ生きることしかできない。
それすらも、困難で困難で、しかたないのだろう。
天気・昼頃に、豪雨。巫山戯るでないよ!/体調・唇、再び危険状態
乾燥している、というよりは、固まっている、という感じで、
しばらく動かしている内に、柔らかくなるのですが、
朝の起きたてや、食事を摂ろうとするときに、
無視できない痛みがストレスを誘います。
古本市に突入。
もちろん、通帳から下ろしに行ってからですよ、しっかりと。
しかし、そのタイムラグが悪かったのか、
上記、タイトルの餌食となりました。
雨が降り出す前に、ハードカバー専用棚のあるテントに逃げ込めたのが、僥倖といえば僥倖でしょうか。
結局、ずっと入っていると授業にも間に合わない、ということで、
小降りになってきたところを見計らって学校へ突撃。
ビニールを二つ使っての防水を施された本達は全くの無事でしたが、
己は無視できないほどのずぶ濡れに(途中で風が出てきたのが原因です。雨が止んだ後も、強風とかしてましたね、アレは)
人間科学系の、大学院。
競争率は、より激化するけれども、
より己の問題にコミット出来るような気がする。
生と死は、対置ではなく、対比できるだけである。
両者が等位なのは、
生の断面にこそ、死が見いだせるからに他ならず、
不断に死に続ける僕らだからこそ、生きていると自覚するのだ。
生は僕らの不変な持続ではなく、生成による知らぬ内の死の連続を踏破することなのだ。
生成するのに、僕らが把握され続けるという、その不思議!
僕らは、こんなにも世界に向かって開いているにもかかわらず、
何十年にもわたって、散らかろうとする宇宙に抗って、
整理された組織を維持しようとするのだ!
天気・雨がずっと降っていて、正直買い物には行きたくありませんでした/体調・足の裏の汗が、気になります
スリッパを、買い換える必要があるのかも。
百均で買った奴なんですけれど、三ヶ月も持たずにボロボロで…。
思っていたほど本を読めず。
今日は特に。
気温は低いのですが、
羽織っていると汗ばむ日が続いています。
さすがに履きたくはないのですが、
とりあえず半ズボンの用意も、してはあったり。
宮中を、内裏、と言うのは何故か。
表裏、が、メインとサブの意味以上のものを、日本が持っているということに、意識を向けるべきか。
二つの系列があるというのは、二項対立を意志するのではなく、螺旋を描くように、中心を開ける形で、中心には向かない移行線を作りつつ構造を築いていくのが、日本なのだ。
中心に何もないのではなく、中心に向けて構造が出来るように力が集中するのであって、中心とは何かが生産されて周囲に派生していくような能動的なものではなく、そこが中心であると認められることで周りから様々なものが集中していく受動的なものだと考えるべきである。
この中心は、蜘蛛の巣のようなものだろう。インターネットを、world wide web(世界規模の蜘蛛の巣)と表現し、その言葉によってインターネットの非中心性が隠喩されているのは、まさにこの文脈によって、なのだろう。
天気・上空は風が強いのか、そんな雲/体調・昼間は眠って過ぎてしまった
法律は社会を反映している、それ故に法律は力を持つ。
常識も倫理も知識体系も戦争も、全ては理性的なものの産物で、
それならば、それらが力を持つのは、
僕らの、信じる、という行為によってでしかない。
それ故に儚いのだ、と言いたいのではない。
僕らに根拠を持つからこそ、それらは力を持ち続けてきたと言うべきなのであって、まさに「権利は主張するが故に権利たるのだ」という意見の通りなのだ。
戦争のもたらす利益と、相互理解のもたらす平穏と、両者は対立し合い、つぶし合うけれども、人の中で両立してしまっている。
ならばこそ、そのどちらを選ぶのかによって、人はそれらに価値と意義を与え、それ故にそれらは選んだ人間に対する勲章の効果を発揮するのだ。
ここに、人のみが宗教を持ちうる、という命題を付加しておくのも、非常に有意義な気がする。
集団意志と個人意志は、多分対立し合う所がある。
個々の増殖の意志が、集団の調整の意志を越えてしまうのが、例えば赤潮や大量発生という絶滅への道を、様々な種に選ばせてしまうように、人は本能的に、理性的な行動を行うとしても、それ故に、非常に理論的な、そしてきっと道徳的な行為の下、絶滅への道を選ぶ可能性を持っているはずだ。
未成年の社会参加を考えるとき、
その可能性の芽を潰してしまう要因は、
官僚制度にあるのではないか?
政治に関わっていながら、国民(集団)の意見が反映せず、もっぱら個人の意志によって参加・行動・運営されている空間。
この論理に、国会議員等の、国民の意思が反映された政治家達は飲まれた形になっているのではないか?
つまり、今の日本の政治体制は集団意志よりも個人意志が優先されている!
先生に、いきなり名字で呼ばれる。
はて、その先生に名前を言った憶えがないのだが………?
靴下を一足買う。
コンビニのものなのだが、非常に上等な出来。
ちょっとびっくり。
いや、コンビニを侮っていたわけではないですが。
天気・朝から雨。気温も上がらず。/体調・口端は、少しずつ治りつつあります。
それでも瘡蓋が、未だに残っていますが。
集団レベルの問題を、個人レベルで解決しようとしていないか?
言葉遣いの乱れ、と言われている問題は、世代間という集団レベルの問題であって、個人個人が気をつけて云々、というような解決法を挙げるのは可笑しくはないか?
この問題を、世代間の交流不振、と言い換えても良い。それでも、問題があるのは個人個人だろうか?僕らが、個人レベルでしか社会的物事を解釈したり解析したり解決したりできないから、そう思えるだけじゃないのか?
仕事、も個人の生き甲斐、というようなレベルで語りうるものなのだろうか?仕事をしてお金を、より沢山稼ぐのは仕事をした個人だけでなく、その仕事に関わる人々、そのお金の流通する人々全てと繋がり、影響し合い、貢献し合う行為のはずで、それほどの規模を持つ仕事という行動に対して、個人レベルの意味や価値を求め、それで終始する人生が成立するとは、とうてい思い無いのだ。
この、仕事を生き甲斐にする、ということを、別の言葉で説明していくと、つまりは資格などのスキルを上げ、社会の荒波にもまれることで様々な経験値を貯め、より高い、目標に掲げる自分へとレベルを上げていく、RPGゲームと何が変わらないというのか!他人は他人と考えて、自分の内面の成長を楽しみにしている人間を、引きこもりと呼ぶことに僕は何の不安も感じない。
男女参画も、案外そんなものなのではないか?男女の違いを、どのような基準を持ち込めば等価に置けるというのだろう?子供を産むのは明らかに女性で、母乳で育てるのが最も良いと知っている以上は1年以上は少なくとも仕事に参画できないだろうし、その間に男性が様々な経験や技術を得ているのを、平等にするために止めさせることなど、本当に平等と言えるのだろうか?それならいっそ、女性と男性を全く別の仕事体系へと分けて、それぞれでそれぞれに適した制度を組み上げさせ、適度に仕事の成果が行き来するようにすればいいのではないか?でも、それを実行するのが一番だとするのならば、両者を平等であると発言することに、何の意味があるというのか!男女という区別は個人レベルで、その両者に対し、どのような対処をするのかという制度が集団レベルで存在するのだ。少なくとも、男女平等とか、差別意識を無くそうとか、そういった個人レベルの解決策でなんとかなるような問題ではないはずなのだ。
じゃあ、男女参画に関する問題の、特に家庭内における問題群はどう考えればいいのだろう。個人レベルでなく、集団レベルで考えるべきだと自分で言っている以上、僕はそれを「群れ」という概念に対する僕らの認識に求めてみたい。多分、僕らの集団生活という概念は、人間以外の動物の群れ行動と、殆ど同一視できないほどに、関係線が希薄なのではないか?この観点で同様に語れるのが、例えば子供の虐待や引きこもりであったり、老人の孤独死であったりと、見事に家庭内の問題へと集中している以上、僕らは今一度、他人との関係を基本とする集団生活の在り方を考え直してみる必要があると考えている。
個人個人を相手にするのではなく、集団そのものの息吹を感じつつ対処すること。それは、一体どのような方法なのだろう。僕らは集団を扱うとき、しばしばそれに名前(例えば宗教団体、例えば団塊の世代、例えばニート)を与えて対処できた気になっていたり、数字にすることで具体性を帯びさせたつもりになっていたり(ナチスによるアイスマンのユダヤ人虐殺における、最も効率的な殺戮計画の計算が、そういった具体的な数字化によったことを、絶対に忘れてはいけない)してはいないだろうか。そんな気になるのは、そうすることで集団を扱いやすくなるからだ。例えば、多数決で多数派と少数派に分けることで、意見の決定を簡潔に、かつ効率的にする。でも、この行為が少数派に対する暴力でしかないことを忘れてはいけない。そして、現在の政治に於いて、多数派の与党であることが、そしてその割合が大きいことが政治の安定に繋がるとして努力していることは、確かにその長所がなによりも協力であることを考えるならば否定できないが、それ以上に大切なこととして、少数派の意見を如何に多数派の意見の中に組み込んでいくか、ということを、果たして彼らは行っているのだろうか?
天気・曇っていましたが、それなりに明るく/体調・皮膚の調子が全体的に悪い?
そう言った方が良いような、そんな状態です。
鼻や喉、だけでなく、腕や首辺りの色合いが妙だったり、この前から感じている髪の調子もそうですし、汗のかき具合も不安定に感じているし………
行事の順番を勘違いして、
無理にでも朝早く起きようとしていました。
ここ暫くは夜にしか行事がないことに気付いた後、
無理した分、昼寝させて貰いました。
それでも、鼻づまりなどの所為で、余り快眠出来ませんでしたが。
まだ周囲への気配りに穴が見られる新入生達。
注意したりはしませんが、この調子でいられてもなぁ、という気も。
タイミングを見計らいつつ、といった所でしょうか?
ロボットとは、人の友達であることを理念とし、人の手によって作られた、自律物のことである。
故に、「人」という、集団でもあり個人でもある、つまりは黒でもあり白でもあるという曖昧な複雑さを意味に持つ私達を理解できない限り、ロボットは今後も生まれることはないだろう。
天気・昼ごろには本格的に雨/体調・風邪がぶりかえった模様
昨日のうちに買い物しておいて良かったと、
本心から思う天気です。
学校から戻ってきた妹も、そんな気持ちだった模様です。
NHKのプロフェッショナルは、いつ観ても素晴らしい番組だと思う昼前。
やはり、寮の部屋にビデオデッキを買い込むべきか、真剣に悩むところ。どうしようか?
サッポロ塩ラーメンに惚れたかもしれない。
スープに卵を溶くのがコツなのだ。
話は逸れて、コツは、きっと骨と、惚ではないかと思う。
小説に、本気で取り組むつもり。
リセット、とは如何に。
リチャージ、だと咆哮。
天気・風がぁ!/体調・膝がぁ!
本屋へ強行。
で、自転車に対し、無慈悲な向かい風を受け続け、
ほっぺたを日焼けしました
いえ、お風呂に入っている時に、なんだか痛いなぁ、とはおもっていたのですが、鏡を見て、痛い辺りの皮膚が綺麗に真っ赤っかなのを確認して、今年初めての日焼けであると認識したのであります。
癖で顎をさする時に、微妙な痛みがあって、ちょっと気になります。
チェ・ゲバラの著作が二冊、森本哲郎氏のエッセイが一冊、シェイクスピアが四冊、といったラインナップで購入。
掘り出し物かもしれないと思っているのは、少し前、ウェールズ賞に選ばれたものの、受賞拒否したことで話題となった数学者が解決したとされているポアンカレ予想に関する新書「ポアンカレの贈り物」これは上記の出来事よりも前に出版されたものなので、未解決問題として取り上げられています。小説形式なのも気になる点。
父親は明日の朝、釣りに行くらしい。
学校の科目登録は、まだまだ先だということが判明。
教えてくれた人に感謝の意を。
高校時代に来ていた私服を洗いなおす。
まだ着れる、というところが、ちょっと微妙な心境。
録画していたテープが、どれがどれだか判らなくなってきました。
早く見てしまわないと・・・・・・・・・
人の限界が、どれだけ低いものであったとしても、
それは、人に対する無条件の信頼を損なうものではない。
人の意思の出発点は、いかなる限界によっても制限できないのだ。
その終着点が限界に左右されるという点で、信用するには、余りにも値しない、というのも、もちろん正論ではあるのだが。
天気・上弦の月が薄く曇っています/体調・いきなり下痢です。驚きました
昨日に続けてテスト。
思ったよりも説明になってしまって、自分の意見らしく無くなってしまったのが心残り。説明ぐらいは誰だって出来るのだから、在る程度は自分の自由な視点を織り込むべきだったか?
しかし、感想というものは未だに不可解な要求だと思う。
誰かを美しいと言ったとき、それが主観・客観のどちらであろうとも、それは事実なのであって、人それぞれに於いて相対的に変化するような評価ではないと思う。例え、別の誰かが美しくないと言おうとも、美しいと判断された何かを保持しているのは確実ではないだろうか? そしてもちろん、ここで幻覚などの可能性を持ち出すのは前提の事実を脅かすだけで問題の解決にも消滅にも関わっていないと思う。
ともかく、僕に分かる事実を羅列することは出来るけれども、それが感想なのかといわれれば、いつも黙り込むしかないのだ。例え対象が、自分自身のことであろうとも。
ココナッツミルク入りの缶コーヒーは、飲んではいけない。
自分へのメモとして。
ARTISTS JAPANを買う。
生協に並ぶのを待っていたのだが、第2号の大観まで出てしまったので、行きつけの本屋で購入。定期購読を申し込む予定。
ちなみに、自分自身は国内外を問わないタイプなのですが、どちらかというと国内作品の方が性に合うらしい。明治以降の作品が何故か好きなのです。
人間は物事を複雑化する把握方式をとる生き物である。
言い換えるなら、人間はカテゴリーを生得的に保持している。
カントの発想は非常に素晴らしいモノだと、僕はこの点で思う。
さらに、人間は定められたルールに反逆できる生き物である。
例え現実に打ちのめされたとしても、理想を掲げられる強さが、
ここにあるのだ。
ところで、連絡されるべき事項が、その直前まで連絡されないという事態が夕食中に発覚した。
やっぱり、打ちのめされたら暫くは凹みたくなる人間の弱さも又、
ここにあると思う。
天気・思ったよりも安定/体調・水分を摂りすぎた?
初めて自販機のスロットが揃った。
三十秒という制約さえなければ、
百三十円のスポドリに手が伸ばせたのに、
気がつけばコーンスープが両手に二缶という恐怖。
テストが一つ。
僕らの限界が問い続けることに定まっているのならば、
その答を在る物として追い続けることは無意味だろうか?
問いを深く掘り下げていったのが、哲学史の流れだと思ったのは、
私だけなのだろうか?
哲学と科学は、まさにその点によって乖離したのではないか?
僕らの知らないことは、知らぬままに存在しているわけではない。
それが客観的に可笑しいとしても、その客観に、僕らは永遠にたどり着けるわけがないのだ。
想定することは、現実には叶わないのだ。
BOOKOFFのキャンペーンに応募する。
今日、投函した物で6通目。受験シーズンは店内が、かなりグレードアップしていると思うのは、僕の勘違いだろうか?
その分、まさにその分だけ買い物量が増えたのは、僕の責じゃない。
共同浴場の壁タイル上方が確実に黴びているのを発見。
次回の掃除当番の際には、是非洗ってみたい。
毎年悩まされている季節の変わり目に襲いかかる粘膜の乾燥期が、今年も終了した模様。
実家から戻ってきた途端にヤられたので、荷物を元に戻しながらクリームを塗っていたのが悪夢でよみがえりそうです。
天気・午後から厚く曇る/体調・咳が突発的に止まらなくなる
もう、咳はどうにもなりません。
身体も、なんだかすぐに痺れますし、
歩くだけでヨロヨロしてしまうし・・・
普段は食べない昼飯を、
ここ数日は多めに摂っています。
それでも、なんだか足りなく感じる自分がいて、
何をそんなに疲れているのか判りません。
主体、というものについて考える。
この言葉は、言葉を扱う思考に於いて、
使用に耐えうるような、そんな言葉なのだろうか?
主観と客観に関しても、どうにも怪しい。
現時点で、客観性というものは、
それを必要と感じる主体の内にしか存在しないのではないか、
と考えている。
では、この思考を行っている自分を、どう扱うべきか?
そもそも、この思考は、語っている自分の完全な支配下にある、
そう考えて良いはずだ。
・・・そうでもないか?聞く誰かの影響を考えるべきだ。
この人称を割り当てられた何か、は、すくなくとも語る・語られる場に於いて在るもの、ではあるのだが、明確に定義・説明されうる者ではないのでは、ないか?
天気・夜になって通り雨/体調・夏風邪、なのでしょうか?
この一週間近く、色々ありました。
早朝のフットサル大会が、終わった日から、
原因不明の偏頭痛、
首筋裏の痺れ、
吐き気を催す喘息気味の咳、
季節はずれの鼻づまり、
と、この一年間では、
最も酷い病症に襲われていました。
現在も、何か話すたびに咳き込むほどで、
授業にすら集中できないほどでした。
そんななか、
寮のネット環境にトラブル発生、
ここ五日ほど、全く接続できない状況でした。
もっとも、ブログが滞っていたのとは、別件なのですが。
それにしても、その修理工事の早いこと早いこと・・・
たぶん、二三時間ほどで終わったはず。
すごいな、N○T
・・・この伏せ字だと、なんか穿った見方されそう。
何かが役立たずであったとしても、無能であるとは言えない。
もちろん、その何かが排除されることは、そうであろうが、
それは、その何かが問題なのではなく、その何かを役立たずな場に置いたものに問題があるのだ。
抵抗のある考え方だが、目をそらすべきではない。
自分が攻撃する者は、偽善的なものである。
己の行為などを、不当に高く評価することは、偽善である。
しかし、それ以上に許し難く、不愉快なのは、
そういった事を行っていることに無自覚であり、なおかつ当然であると考え、それを周りにも適用しようとする人間である。
それが、自ずから起きてしまう事態である以上、それを否定することは人間性の否定になってしまうと思っているが、それを自覚しないことには、私たちは常に問題を解決できないままに生きていくことになる。
天気・すごしやすい天気だったのでは?/体調・やはり、寝た後の手足が痺れる
今日から、学校、休みなんですかね・・・
やべぇ!まだ証明書作ってないんですけど!
どうしよ、月曜とか、やってないかな(やってないだろうね)
うわうわうわうわうわうわうわうわ・・・
当たり前のことを悩むことが出来るのか?
天気・雨が降ったり晴れまくったり/体調・眠っている間が、非常に長かったように感じます
弟がバイクで転けました。
やはり、まだまだ初心者でした。
とりあえず、怪我はしていないということで、
安心はしているのですが。
・・・え、自分?
スピード出るのは駄目なんです
世界の本質を考えることは出来るが、識ることは出来ない。
それとも、そういった存在まで突き詰めると、
考えることは知ることと一致するのだろうか?
これが、神の存在証明を認めるのか?
しかし、それは幾らなんでも、
安直すぎるだろう。
















