天気・晴れていても暗め/体調・九時間睡眠で、それでも眠くなってきます
私達は、頭の中で言葉にして何かを想っているわけではない。
言葉は、私達の肉体的・精神的な縁/淵を司る何かである。
天気・強風で落ちてきた木の実が直撃する/体調・鼻の中が堅い気がする
ライトノベルにおいては、死はテーマではなく、出来事である。
言い換えると、死は歴史的ではなく史実的でしかないモノとして扱われている、ということである。
自然の中で、種の影響力は、種を構成する個の影響力で診断されている。それ故、人間は此処まで増殖した、と考えるべきである。
ヒトは、個では余りにも脆弱で、群れとなったとき「集団」という名の怪物に進化する。ここで、ヒト以外の動物は群れを本能的に作り出し、同じレベルで役割分担を行うが、ヒトは本能的に、文化的な群れ=集団を作り出し、役割分担を行う。ヒトの本能は、そもそも文化的と呼んでいたものと同じものなのだ。
心のさき
何かを得るために何かを失うことはある。
でも、何かを切り捨ててまで手に入れられるものなど、
この世の何処にも存在しない。
・・・・・・・・・その結果の同じことが、ボクを苦しめるのだ!
逃げ切れない偽善が、頭のうえ、屋上のスレスレを、
馬鹿にした態度で回り続けている。
客観性、考えるということについて
客観性というものを、想定することに意味はあるのだろうか?
そもそも、客観的に考える、ということ自体、不可思議だ。
考える、という行為が、主観から切り離されたものだと言えるのだろうか?
例え、どんなに客観的で純粋な記録を手に入れたとしても、それを私たちが考える内に持ち込んだ時点で、如何なるものも、主観の元に備わってしまうわけで。
ソレよりも重要なのは、今手に入れた情報が、どれほどのバイアスを掛けられたのか、そして、どれほどのバイアスを掛けようとしていくのか、を考えるべきだということではないだろうか?
そもそも、主観を定義づけたデカルトは、客観なんてもの、想定すらしていなかったはずで、他者を想定しなくてはならないほど、己の思考を信じられなくなったと言うことを、思索する本人が認めるわけにはいかないだろうに。
社会経験について
社会に出て経験した方が良い。
この文章は、一体、何を言おうとしているのだろうか?
僕らは、今まで一度でも、社会から排除されていたことがあるのか?
僕らは、今まで一度でも、社会を見ていなかったことがあるのか?
僕らは、今まで一度でも、社会の中を自由に動き回れなかったことがあるのか?
僕らは、今まで一度でも、何かの経験が、他の何かの経験よりも価値があるものだと、教えられたとしても、感じたことがあっただろうか?
そして、そこに、統一的なものが、果たしてあったのだろうか?
この文が放ってくる、何とも言い難い違和感は、
きっと、受け付けられないものだろう。
思索に関して
思索は、その要素自体はリニア構造であるが、
それらが同時に幾つも網の目のように進行している、
多分、そんな動きをする。
思索の開始は、
まず、その出発点となった、
疑問の吟味からであり、
場合によっては、その意味と価値が否定される。
普段の学校教育に於いて、
そういった問題部分の絶対性が批評されることはない。
正しさを論議することは出来るが、
好みを論議することは出来ない。
前者では歩み寄りは可能でも、後者では絶望的だろう。
選択
最高の結果が得られると、
確実に言えない選択を、
私たちは常に強制されて、
今を生きている。
それが、どうしても悔しい。
膨大で無限の選択肢が存在するのは、
仕方ないとは思う。
でも、最大限の努力をする余裕は、
どうしてもほしい。
天気・風はほどほど/体調・昼寝は、やはり上手くいかない
大事な物を、どうするべきか。
保存しておく、ことは妙な事になると思うのだ。
偽証(?)
たくさんの真理の中に嘘を埋め込むことで、
その嘘を真理に見せかける。
神様、然り。
未来、然り。
深く強く訴え続けなければならないものだろう。
罪と罰
罪は絶対に取り消せない重荷である。
罰は罪を意識させるためにあり、それしかできない。
償いは上記二つを忘れられないがための行動であるがゆえに、常に周りに対して、己の罪を示し続けるものである。
故に、法律は罪を裁けても、人を救うことは、たぶん、絶対に不可能である。少なくとも、罪人に対してならば、守ることはあっても救ってはくれない。
さらに、罪人は、一生涯その罪を背負いながらも、幸せになることが出来るし、被害者は彼らを攻め続けることは出来ても、幸せになることを否定することは絶対に出来ない。もし、その否定が成り立つのならば、被害者が被害者になってしまった事実に対し、受け入れるしかないと言わねばならなくなる(そんな運命があるなんて、僕には認められないから)
ここから派生的に、罪に耐え切れずに自殺することが一つの選択肢としてなければならない。
可能性は避けられるものである。
しかし、現実になろうと、常に傍にある。
僕らは、己を貫くために、それと常に抗い続けなくてはならない。
天気・雨と曇りを交互に行う/体調・冷えるとクシャミ、さらには腹痛
以前、こう記した。
世界は無意味である、それゆえに価値がある。
私達は、世界に意味を与えることが出来る、ただ一つの種である。
さらに付け加える。
僕らの人生に意味を与えるのは、僕ら以外の人である。
僕らが残せるのは、他人の与えた意味だけである。
しかし、意味の種類は千差万別であり、僕らはその中から特定の意味を渇望する。
ゆえに、その意味を与えてもらえるように、僕らは生きようとする。
そして、その意味を与えてもらえるからこそ、僕らは死ぬことが出来るのだ。
僕らが死ぬ存在であることの、精一杯の理由付けである。
天気・最近、空を見上げてないなぁ・・・/体調・左足が痺れたりした
誰も何も言えないことと、
誰にも何も出来ないことは、
対応することだろうか?
可能性と主体性について
可能性自体を予測して現実の判断に生かすのは正しい。
しかし、可能性が、ただそれだけでは意味も価値も持たないことを、
常に念頭に置かねばならない。
可能性は、現実になって初めて、それらを持つのだ。
主体性に疑問を持つ。
それがあることにではない。
それを疑うほど、それについて考えているわけではない。
しかし、それを中心に置いた教育方針は、正しいとは思えない。
自発的?自主性?リーダーシップ?
人という物は、既にそういうものではないか?
それは、意識されていいものなのだろうか?
ただ単に、人を孤独にするだけのもののように、
感じはしないだろうか?
「無」に関連して
無意味は無価値ではない。
無意味でなくては価値を持たないモノがある。
しかし、その価値が認められているとは、限らないだろう。
















